書かずにおれない(笑)
きっかけは1本のYouTube動画
何度見ても面白い。
本人には失礼かも知れないが、この吉村強化委員長がオリンピックに向けて緊張している選手たちをリラックスさせようとしていたのなら、大成功と言って良い。(笑)
今現在、東京オリンピックは開催が危ぶまれている状況だ。4年に1度この時この瞬間に向けてひたむきに努力を重ねてきた選手たちが見せる競技や演技はメダルの色やメダルの有無に関係なく多くの人に感動を与えるし、流す涙はうれし涙も悔し涙も本当に美しいと思う。
たくさんの人に与える感動はコロナに立ち向かう力にもなるだろう。
しかし同じように人の心を動かし、しかも軽くするものがあることに気づいた。
それは「笑い」だ。
「笑う角には福来たる」のことわざの通り、笑うことには様々な効能があると言われる。
「こんな時こそ笑おう。笑の効果」
https://www.softbankatwork.co.jp/column/counselor/2020/05/19/2999/
今世界中の人々がコロナウィルスに対する恐れ、これがいつまで続くのかと言う不安を抱えている。
自粛が続き、遠くにいる家族と会ったり、友人とお酒を飲んだり、カラオケで歌を歌ったり、といったことがしにくい状況だ。
しかし、「人はパンのみにて生きるにあらず。」
新約聖書 「マタイ伝 第四章」
が言っているように人生には潤いが必要だ。
うがい手洗いマスクも大切かも知れないが、こんな時だからこそ心の健康が大切だと思う。
だからこそ笑の力をもう一度見直したい!
しかも、笑いは伝染するらしい!
この動画を見てほしい。
笑いは笑いを呼ぶ。 どうだろう、あなたも知らず知らずに笑っていなかっただろうか? 私は笑ってしまった。(笑)
世界中に笑いが伝染していけば、みんなの免疫力がぐんと高まり、コロナも消えていくんじゃないか。(笑)
ナチスの強制収容所での実はを描いたフランクルの「夜と霧」に心に残っているシーンがある。
強制収容所での非人道的かつ過酷な条件の中、どうやってユダヤ人たちは生き延びたのか?
その日1日中考えて、1番面白いジョークを夜中静まり返った宿舎の中みんなで話し合う。栄養失調状態で骨と皮ばかりになった体で精一杯笑いあう。
そうやって希望をつなぎ生き延びたというエピソードだ。たとえどんな状態でも人は笑うことができるし、それは生きる力につながると言うことがすごい説得力で迫ってくるではないか。
「夜と霧(ヴィクトル・エミール・フランクル/霜山徳爾)」 https://www.amazon.co.jp/dp/4622006014/ #読書管理ビブリア
またタイトルは忘れたが別の本では、雪山で雪に閉ざされいつ救助が来るか分からないような状況の中で、最も強い人間はどんな人間かといった話で、いかにも体が丈夫でタフそうに見える者よりも、ジョークを言ったり歌を歌ったりするような者の方が最後まで正気を保って生き延びることができるそうである。強固な意志よりも、しなやかな心の方が強い時があると言う、実に興味深い話だ。
続く。
書かずにおれない。
本当に久しぶりに風の谷のナウシカのアニメを見た。
そして今久しぶりにブログを書いている。
書かずにおれないのだ。
「風の谷のナウシカ」中学生のとき初めて見て以来テレビなどでセリフを全部暗唱できる位見ていたはずなのに、気がつくと本当に長らく見ていなかった、おそらく見たのは十数年ぶりだ。
ストーリーも全部わかっているので、それほど心を揺さぶられることもないかなと思っていたが、見ている最中何度も何度も号泣してしまった。
そして自分の原点とは何かということを久しぶりに考えた。
高校生の夏休みに「はだしのゲン」のアニメを見て強烈なショックを受けたことがある。
見終わってしばらく涙が止まらず自分の心がバラバラに壊れたような感じだった。
ささやかな幸せを望み生きている人々が原子爆弾によりズタズタに引き裂かれる様子に17歳の自分の心も引き裂かれてしまった感覚だった。
そして文明や科学の進歩が最終的に核兵器に行き着き、お互いに殺し合うならば、まるで自滅の道をたどっている人間とは一体なんだろうと言う疑問を持ってしまった。
その疑問へのこだわりは大学に進学してからも続き、周りはみんな合コンとか楽しそうにしていても私はどこか心ここにあらずといった大学生活を送っていたのだった。
じっとしていると頭がおかしくなりそうなので、とにかくエネルギーを発散するため、行動しまくり、暇さえあればバイクであちこちかっ飛ぶみたいな大学生活だった。
そんな時にチェルノブイリの原子力発電所の事故が起きた。これもまた衝撃だった。環境問題にとても興味を持ち、本もいっぱい読んだ。勉強会とか抗議活動とかにも参加してみたけれど何かしっくりこなかった。
生き方を模索しているときに循環農業を行なっている団体に出会った。
何かに反対したり、机の上で勉強していることだけに疑問を持っていた私は、自然と向き合い自分の手や肉体で食物を生み出す農業と言う職業に興味を持ち、やってみたくなりいてもたってもいられず大学を中退しそこへ飛び込んだ。
慣れない農業は大変だったけど、全身全霊を打ち込めるやりがいのある仕事だと思った。
20代後半にはそれでも農業以外の仕事を社会勉強としてやってみたくなり、つなぎからスーツに着替えて営業などの仕事をやってみたりもしたがしっくりくるものではなく、今度は自分で農園を作りたいと思うようになった。
2011年東日本大震災の時、福島第一原発事故の時、人間はいつ死ぬか分からないと思い、会社を辞めて新規就農した。
思い返せばはだしのゲンの原子爆弾の衝撃から始まり、チェルノブイリの原子力発電所事故、そして福島第一原発発電所の事故と、はからずも核と原子力と言うものが自分の人生にすくなからず影響を与えていたようである。
しかし最近はといえば、原発の問題も起きてしまった事でもあり、自分が声を上げたところで、どうこうなるものでもなく、無力感とともに、変えられないことは仕方がないので、身近なコントロール出来るところから変えていこう、といった諦めにも似た感じで農業に精を出していた。
しかし同時に心のどこかで、地に足のついた生活をしている自分は直接手を汚していないし、悪くないと言う自己弁明の様な気持ちもあったと思う。
そんな中、久しぶりに見た、アニメ「『風の谷のナウシカ』は本当にそれで良いのか!?と言うメッセージを心の最もコアな部分に投げかけてきた。
序盤ナウシカが地下室で腐海の植物を育てているシーン。そこにユパがやってきて会話になるシーン。
「きれいな土と水では腐海の植物も毒を出さないと分かったの。汚れているのは土なんです。この谷の土ですら汚れているんです。 なぜ⁉︎ 誰が世界をこんな風にしてしまったんでしょう。」
ああ、
「誰が世界をこんな風にしてしまったのでしょう?」
この瞬間頭に浮かんだのは原発汚染水の海洋放流の事だった。政府は4月13日に福島第一発電所の原発汚染水よ2年後から30年かけて海に放出することを決定したと言う報道があった。
様々な情報が飛び交い、トリチウムは除去できているので流しても問題ないと言う専門家から、トリチウム以外にも様々な放射性物質が含まれているので放流すべきではないと言う意見もさまざまある。
僕は原発の専門家ではないので放流しても安全かどうかといった事は判断できないがその中でも強烈に感じた違和感がある。
それは自分たち人間にとって安全かどうかといった主点や論点から抜けきれてないと言う所だ。
海には25万種類の生き物が、未知の生物を合わせれば100万種類の生物がいるそうである。
彼らの意見は聞いたのだろうか?
彼らは汚染水の放流を喜んでいるのだろうか?
言葉を持たない彼らは意思表示をしないだろう。
人類が誕生して数百万年、日本列島に人間が住みついたのが今から35,000年前だそうである。
人類はまだまだ新参者であり、他の多くの生き物の方がこの地球に先に住む先輩たちである。
人間がもし万物の霊長と言って尊い存在ならば、地球に住む兄弟姉妹たち、他の仲間の生き物たちのことも真剣に考えなければならないのではなかろうか。
この海洋放流の影響を正確に予想することは不可能である。海流は複雑だし世界の海はつながっている。生態系は繊細でどのような形で影響が出てくるかは誰にもわからないはずである。
確かに海は広く海水は莫大な量なので汚染水も薄まってしまうだろう。しかし植物連鎖による生物濃縮により、放射性物質は確実に濃縮されそれはやがて食卓に並ぶ魚や海産物となって私たちの体に戻ってくる。そんなことは専門家でなくてもわかりきったことである。
その時人間はこれは天罰であるとか自然からの復讐であるとか言うかもしれないが、彼らや自然は天地万物の理に従って動いているのであり、人間のやったことか自業自得で帰ってくると言うことだと思う。
いつから人間は
「いつから人間の体には真っ赤な血液の代わりに石油と機械油が流れるようになったのだろう?
いつから人間は心の代わりに、脳に埋め込まれたICチップが行動を決めるようになったのだろう?
いつから人間はこのたった1つの命の代わりに金と発展を大事にするようになったのだろう?
いつから人間は生き物を食べる行為が地球とつながることだと言うことを忘れてしまったのだろう?
いつから人間は地球とつながっていたへその緒を断ち切り、孤独な存在になってしまったのだろう?」
今のままてまは私たち人類は、例えるなら放蕩息子が、自分1人で大きくなったように思い上がり、愛情かけて育ててくれた母親(地球)や兄弟姉妹たち(他の生き物)を踏み台にして遊び呆けてるようなもんじゃないだろうか?
海を汚せばどうなるかは水俣病が教えてくれているはずである。
あれから何も学ばなかったのか?
古くは足尾銅山の鉱毒事件もそうだし、水俣病だって発見されてから原因が究明されるまで10年以上の歳月がかかった。
原子力発電だって絶対安全だったはずである。
ではなぜ絶対安全な原子力発電所は東京湾に作られなかったのか?
万が一のことを考えていたのである。
そしてその万が一のことが起こった。
想定外のことが起こったのである。
そして想定外の事はこれからも起こり得るのである。
ナウシカの後半のシーン
トルメキアのクシャナと風の谷のおじいさんたちの会話。
「あんたは火を使う。 そりゃあわしらもちいとは使うがの。」
「多すぎる火は何も産みはせん。 火は一瞬で森を灰にする。水と風は100年かけて森を育むんじゃ。」
「わしらは森と風のほうがいい」
本当に考えさせられるシーンだった。
多すぎる火=原子力はその圧倒的なエネルギーが故にコントロールが不能になった時は壊滅的な被害をもたらす。
そして、放射能はずっと生態系に影響を与える。
数十年前、原子力発電が実用化されたときにはまさにその時代の人々にとっては夢の技術、エネルギーだったに違いない。
事故が起こったときのこと、やがて来る廃炉の問題を考えている人はわずかだったろう。
しかしその人たちを責めることはできないと思う。
彼らもこんな事故を起こし子孫に負の遺産を残そうとして努力したわけでもないだろうし、子や孫に豊かな生活をさせたいと言うのがスタートだったと思う。
原子力の問題は電力会社にだけ背負わせるには大きすぎるし、原発を推進した政権だけを責めても仕方がないし、解決できないだろう。もちろん大きな責任があるのは間違いないが。
エネルギー問題は一人ひとりのライフスタイルにまでつながってくるし、放射能の問題はどんな山奥で自給自足の生活をしていても影響を受ける問題だ。
将来起こりうる事への責任が取れないと分かっているならば、汚染水の海洋放流は絶対にすべきではないと思う。
.海はつながっているからこれは世界に影響することである。
このような負の遺産(借金)を返すには相当な覚悟がいると思うが、どんなに時間がかかってもそこに取り組むべきであり、それは今生きている大人が受け止めなければならないし、未来に期待を託すなどは情け無いと思うべきだと思う。
またエネルギー問題も再生可能エネルギーやオフグリッドのシステムなど大規模集約から小規模分散へ徐々に移行すべきであろうし、そのような技術のコンバージェンスに力を注ぐべきだと思う。
そうすればこの苦い経験が、世界を救う宝物になるかもしれない。
未来の人々に
「誰が世界をこんな風にしてしまったのでしょう?」と言わせないためにも。
風の谷のナウシカを久しぶりに見て感じたことを書かずにはおれず書いてみました。長文を読んでくださりありがとうございました。あまりに大きすぎる問題は自分とはかけ離れたもののように感じ、言葉を発することも躊躇してしまいがちですが、共感してくれる人がいると嬉しいです。
山の会議(仮)に参加して③ 山間部を活性化するということ
今日は脊振村3代目村長 徳川権七翁の命日
徳川権七翁
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%A8%A9%E4%B8%83-1094261
当時の脊振村は貧しく、離村する者が後を絶たなかったが、村を上げて植林事業を行った。 結果数十年後には村は豊かになり、一時は村民税が0の時もあったという。
20代のころ、短い間だが林業に触れ、間伐や枝打ちをやったことがある。 それまでは自然林と人工林の区別もつかず、身近にある杉や檜は、戦後大規模な植林により植えられたもので、人が入り手を加えなければならないなんて知らなかった。
国産木材の価格がさがり、森は荒れ、それが災害や花粉症の要因になっているとも知った。
林業を体験してとても印象に残っていることがある。 それは山で実際に生業として林業をしていた方の言葉。
「100年の森づくり」
植林した木が大木となり、切り出されるのはおよそ80年から100年後。
とても息の長い時間であり、その恩恵を受けることができるのは、当の本人からしたら、孫かひ孫くらいの世代になる。
今直接の恩恵ではなくて、自分がいなくなった後の子孫の事を考えてのスケール感に胸熱になったものだ。
当時の脊振村も、食うや食わずの状況での植林事業には猛反対があり、村は賛成、反対と真っ二つに割れ、揉め事にまでなったらしい。
そんな中、自分たちの食べものよりも、次代の豊かさを見据えて行った3000ヘクタールに及ぶ植林事業にはやはり胸を打つものがある。
脊振では学校の授業でも徳川権七翁のストーリーはよく伝えられている。
最近自分自身、「継承」 について良く考える。
過去から未来へと繋がる、「今」をこの世に生きている自分は、何を受け継ぎ、何を引き継ぐべきか。
命 DNA はもちろんあるが、今を生きている人は過去生きてきた人々の恩恵を受けていると思う。
例えば、ブログを打っているスマホも沢山の技術の集積から生み出されたものだし、身近にあるものやさまざまな技術や知識も過去生きた膨大な人々の人生と努力の賜物だと思う。
分かりやすく恩恵と言えるものばかりでは無く、負債というか、負の遺産とでも言うべきものも沢山あるのは分かる。
例えば、戦争 原発 核廃棄物 気候変動etc
グレタさんじゃないが、「なんてものを残してくれたんじや、このボケが‼️」って言いたくなる気持ちも分かる。出来れば宝だけ引き継いで、負債はもらいたくないだろう。(笑)
しかし、駅伝のタスキの様に命のリレーで生かされている私たちは、全てをひっくるめて、まずは引き受けるしかないと思う。 前の走者がドンけつで走ってきて、「何やっとんじゃボケ! やってられるか。」となれば、そこでリタイヤだろうし、よし、自分が挽回して見せる!と全力を出せばチャンスは巡ってくるだろう。
だから、良いものは更に良くして、課題や負債はなるべく解決して、次代に引き継ぐのが責任なんじゃないかと思っている。
より良くするために現状を否定し、変えていく時、憎しみを持って破壊するのか、過去の人々へのリスペクトと感謝を持ってするのか、では結果も違ってくるし、豊かなのではなかろうか。
今、脊振をはじめ過去の人々が植えた杉、ヒノキの森は手入れが行き届かず、日の光が差し込まず、台風によって薙ぎ倒され、保水力も無いので災害が起きやすく。次代の幸を願って植えられた森は、どちらかといえば、厄介なお荷物の認識になりつつある。
その様に形は時代の流れによって陳腐化したり、無用化したり、かえって厄介なものになったりする。
だからもちろん、それらを改善していくのも大事だが、受け継ぎ、引き継ぐべきは「想い」だと思う。
時代は変わっても、変わらないものは、故郷を良くしたいという思いであろうし、次代の人々の幸せだとするならば。そのスピリットを引き継げれば、後はどんな生業であっても活きてくると思う。
保存活動をされていた徳川権七翁の生家も、
木を売って作った自校式給食も、残念ながら形は無くなってしまった。
悲しいことだが、だからこそ、そのスピリットはしっかりと受け止めたいと思う。
そして、自分の仕事を通して表現したいと思う。
次回はいよいよまとめになる予定です。(笑)
ペンタ共和国に想いを馳せつつ、山の会議(仮)脊振山系グループに参加して ②
前回は平成の大合併により、中山間地の村などの多くは市、町などの大きな行政区との統合の道を選択し、その結果リーダーであった村長などがいなくなり、地域独自の決断や、実情に合った政策が出来にくくなり、行政主導での地域づくりの活力が弱くなったと感じるということを書いた。
自主自立の道を貫いた、岡山県の西粟倉村の様な稀有な例は別として、日本中の過疎地は大なり小なり同じ様な道を辿っているのかなと思う。
今回は、その様なリーダー不在の過疎地で、行政主導ではなく地域を活性化するにはどうしたら良いのか? を自分なりに考えてみた。
.....とはいえ、第一部を書いてからかなり時間が経つが、これは!といった良い方法が浮かばない。
さてさて、困った。
参加した山の会議である方が言っていた言葉。
「山の衰退や過疎化には特効薬がない。」
たしかにそうだと思う。 行政主導による強力なリーダーシップは特効薬と言えなくもない気がするが、他力本願な感じもする。
そもそも、合併を選択した段階で、自力では地域の維持が困難だという判断を住民の過半数がしたということなのだろう。 精神論と言われるかもしれないが、私は合併したこと、そしてリーダーが不在になったことよりも、自主自立の気概と、地域に対する誇りが、薄まり弱まった事こそが問題だと思っている。
こんなことがあった。 脊振には「脊振の給食日本一」と皆が自慢の自校式給食がかつてあった。
山の子が平野の子に比べ小柄だったことから、村興しは学校給食からと服巻四郎さんという当時の教育長が村中をまわり村民を説得して出来上がった。
3代目村長、徳川権七さんら村人総出で植林した木を伐採して財源とし、給食の搬入路も村人たちが区役で作ったそうである。
おもやい給食と言って、地域の方々が家庭菜園で取れた野菜を持ってきたり、生産者も年に数回給食に招待されたりして、地産地消や理想的な食育の姿がそこにあった。
しかし、合併により、給食センターを作ることとなり、統合の道を余儀なくされた。代々の育友会の方を中心として、約10年に渡り存続のための地道な努力をし、最終的には脊振地区の方々の7割以上、約1000名の方の署名を持って市役所に届けたが、市長をはじめ、当時の教育長も受取を拒否。 理由は決まったことだからという一点張りだった。
そして、皆から愛された脊振の自校式給食は歴史の幕を閉じた訳だが、私はこのことで無くなったのは調理場ではなく、地域の繋がりであり、地域への誇りだったと感じている。
ここからは右脳で書くことにする。
先人たちが次代の幸を願い、心血注いで作ったものを、ただただ効率と、コストの削減を目的として無くして良いのか!
集まった1000名の署名は、行政に反対するためのものにあらず、地域の宝を護りたいというたったひとつの願いによるものだった。 それを受け取らない行政に市民の声を聞きますなどと言う資格が果たしてあるのか!
市として合併したことで、同じ行政区内でサービスの格差が生まれるのは問題だというのは分かるが、平等というのは良いものもなくして平均的にすることでは無いのではないだろうか!
それは平等では無く悪平等であろう。 地域によって実情も違うし、歴史や伝統、もちろん大切にしているものも違うはず。
個性を薄くして均一化するのはまるで同化政策ではないか!
駆けずり回って集めた署名を受け取ってもらえず、仲間と一緒に泣いた夜。
地域を思う人々の心に氷水をぶっかけるかのごとき対応に、5年たった今でも納得いかないのだ。
乱筆乱文失礼いたしました。
済んだことをまだ根に持っているの? と言われる。
ある方からは、「気持ちは分かるが、引き際も肝心だよ。」といかにも大人の対応をされたが、はっきり言って、納得できるかボケ! である。
ここで右脳は終了。
私は人から馬鹿と言われようが、意地悪されようが、決して根に持つタイプではないが、人が大切にしているものを数の力や権力で踏み躙ることには無性に腹が立つ! どうもそういう性分らしい。
子どものころは弱いくせにいじめっ子に楯突いていじめられたり、理不尽な先生に歯向かって目をつけられたりしたものだ。自分でも困った性分だとつくづく思うが、仕方がない。
しかしこのことをきっかけに学んだことがある。
世の中には、大きな力や数の力に、踏みとどまって声をあげ続けている人が大勢いるということ。
今まで人ごとだった自分に気づき、恥ずかしくなる。
そして大切なものを守るためには覚悟がいるということ。
とても大きな学びだったと思う。 この経験がなければ、自分の仕事を通して地域の活性化に繋げたいとは心底思わなかったかも知れない。
脊振に移住して17年。あと2年で最も長く住んだ場所になる。
私は故郷を捨てた人間だ。
移り住んで、土地を購入し、農業を始めたとき、ここで生きようと決めた。そしてここが故郷になった。
だから故郷がじわじわ衰退していくのを黙って見ていられないし、なんとかしたい。
読んでくださった方を不愉快にさせてしまうことがあるかも知れません。
しかし、一見するとネガティブな体験が、その後の行動を決定づけることの方が多いと感じます。
スティーブ・ジョブズが自ら作ったAppleを追い出された体験を後に最高の出来事だったと言うように。
点と点はつながり、やがて線になる。
そう思っています。
またまた長くなってしまったので、次回につづきます。
ペンタ共和国に思いを馳せつつ、山の会議(仮) 脊振ブロックに参加して。
佐賀県の方たちはご存知だろうか?
ペンタ共和国という名称を。
三瀬 富士 厳木 七山 脊振で行政区の枠を越えて架空の共和国を名乗り、山間部という共通のリソースを統一のブランドとして観光誘致の取り組みをしていたらしい。 ペンタ=ペンタゴン(五角形)で5つの地域の連携と、山に良くいるタヌキをマスコットキャラクターにして、ペンタと名付けたと言うことらしい。
山道を走っていると、まだその頃建てた看板が残っている。
ちなみに佐賀県では、有明海沿いの町で、同じようにどろんぱ王国というのもあったそうである。
スタートは行政主導であったようだが、単独でやるよりも広域連携でやったほうが相乗効果も期待できるので面白い取り組みだと思う。
きっと日本中で同じような取り組みがあったに違いない。
さて、昨夜は山の会議なるものに参加してきた。
参加されたのは旧ペンタ共和国の方々だ。
山で暮らしていて、課題に感じていることを出し合うファシリテーションを行なったのだが、微妙な違いはあれ、ほぼほぼ同じような現状や課題が出されていた。
人口の減少 担い手の減少 移住者をどう受け入れるか? 移住者と先住者とのギャップをどう埋めるか?などなど。
いろいろな課題が出る中で、私が印象に残った言葉は「リーダーの不在」だ。
リーダーと言ってもさまざまな定義があると思うが、地域の行政区のリーダーは市では市長であろうし、村ならば村長だろう。
ペンタ共和国の5町村は、平成の大合併により近隣の市町村と合併の道を選んだ、結果ペンタ共和国は事実上消滅した訳だが、それとともに地域のリーダーであった首長もいなくなってしまった。
きっとそれまでは地域の隅々、住んでいる人々一人一人を熟知し切った首長や行政職員が実情に合った政策を、今よりはるかにしていたであろうし、故郷創生資金をはじめ、ある程度自由に使える予算を村づくりに使えた筈である。
私の住んでいる脊振も、村時代に神埼町 千代田町と合併して神埼市になった。山の脊振と平野の神埼、有明海に近い千代田と、南北に長い縦長の市となった。
近いとはいえ、異なる文化やリソースを持っていた町村の合併は難しかっただろうし、沢山の課題を残していると思う。 ましてや山と平野では予想以上に違いがあると思う。
例えば、農業一つとっても狭い田んぼを何枚も管理しながらイノシシと戦う山の農家の苦労は圃場整備され、大型機械で作る平野の農家には共感できないと思うし、それはぜひもないことだと思う。
私は数年前に農業委員をさせていただいていたのだが、平野部の委員の仕事は農地から宅地への転用の立ち会いなどが主だったが、山間部は地目が農地でありながら耕作放棄地となったり原野化した土地の調査や非農地証明の発行に関するものなどだった。
また、災害も、山は土砂崩れや積雪、平野では冠水など、対応も違う。 それらに対処するため合併後も支所を残して職員もいるのだが、それでもやはり、村長のようなリーダーがいて陣頭指揮をとるのとではレスポンスも違うし、なかなか実情が伝わりにくいという声は沢山ある。ましてや力強い村づくりは望むべくもない。
平成の大合併により合併した多くの自治体が同じようなジレンマを抱えているのだろう。 合併から抜け出そうという動きが日本中にかなり出てきている。特に大きな行政区との合併の道を選んだ小さな行政区(山、村)などは合併後、良くなった、合併して正解だったと住人が思っているところは皆無か、限りなく少ないのではないだろうか?
その一方で合併の道を選ばす、自らの自治を貫いて発展を遂げ、有名になった村もある。
https://colocal.jp/topics/think-japan/kaijirushi/20131217_27605.html
脊振と西粟倉村は、山という資源、主たる生業は林業、人口という点でもほぼ一緒である。
合併を選んだ脊振。 自主自立の道を選んだ西粟倉村。 どちらも険しい道を経て10数年の現在の姿がある。 比べるのは好きではないし、単純な比較はすべきでは無いが、両者の間には大きな開きがあると思う。
自らの可能性を信じ、強みを磨き上げ、いばらの道を進みながら村づくりを力強く進める西粟倉村は全国の注目を浴びている。
成功した事例が出ると、やり方を真似たら良い、という人がいるが、私はそれでは絶対上手くいかないと言いたい。 なぜ自主自立のいばらの道を選んだのか! そこには強烈なプライドと、熱量と、覚悟が確実にあった筈である! それら無くしてやり方だけ真似るのは、仏作って魂入れず。 単なるハリボテに過ぎないと思う。
西粟倉村の例は稀有な事例だが、地域の活性化には何よりそこに住む人々のマインドが最も大切だと言うことを教えてくれていると思う。
合併により、住民の声が届きにくくなった。
リーダーが不在になり、大事な決定が出来なくなった。 その様な声は良く山間部で耳にするし、事実だろう。
そしてますます財政が厳しい地方では末端の声は届かなくなるだろう。 まるで手や足の指先まで血が回らず、冷え性になっている人のようである。(笑)
これは東京と地方との関係にも同じ構図を感じる。
ここまで書いてみて、これで終わりでは単なる分析と愚痴になってしまうが、では、リーダー不在で行政主導ではなく、山を活性化するにはどうしたらよいか? そのことを考えてみたい。
長くなったので、二部構成にしたいと思います。
長文読んでくださりありがとうございました。
中山間での米づくり③
先日稲刈りが終わった。
植える時期も遅く、品種も違うので、大体他の方が終わってから一番最後になることが多い。
ちなみにこの辺で作られている品種はさとじまんと言う銘柄。 作りやすく収量が多いのが特徴だ。 私のところはひのひかりと言う品種を作っている。 収量はさとじまんに及ばないが、食味に優れている、つまり美味しい。
収穫間際に一度イノシシに入られた場所もあり、予想より収量は少なかったが、それでもほぼほぼ例年並みの収量があった。
脊振地区では台風9号 10号による倒伏とウンカで例年の4割の収量だったからそれに比べるとまあまあとれたと言えるだろう。
うちは本業が養鶏家なので堆肥には鶏糞を使っている。鶏糞は窒素分が多く、米作りに使うとイモチ病が出やすいというのが定説だ。
そこで春には入れずに秋、収穫が終わった後の荒起こしの時に、半年以上寝かせた完熟鶏糞を10アール(I反)あたり400キロまいている。 春には草が生えるので、そこでもある程度窒素分が吸収されるて考えている。
肥料はそれだけで、化成肥料は使っていない。そういう訳で慣行農法の田んぼに比べると収量は少ないのだが、肥料代もかからないし、イモチ病も出たことがないし、ウンカの被害もない。 台風による倒伏もなかったのは身入りが少なかったので、稲穂が軽かったからだと思う。
倒れていたのも、ウンカにやられたのも、それまではびっしり実った豊作が期待された田んぼだった。
こういったやり方は取れる時は豊作だが、何かがあると凶作になったりと振れ幅が大きいと感じる。
地力や稲の力の8分めの力で長く続けられる農業が私の理想だ。とはいえ米作りはまだまだ決して自慢できるレベルでは無いので強くは言えない。
さて、前々回は中山間地域でお米づくりをしていたり、共同乾燥のオペレーターの仕事をしていて感じていること。 前回はその上で耕作放棄地が増えていく中で、その土地利用でどんな可能性があるか考えてみた。 まとめとなる今回は長年続けられてきた稲作を継続するにはどうしたら良いか、考えてみることにする。
コメの価格は下がり続けている。
気候変動による極端気象で安定して作れなくなっている。
高齢化と後継者不足で辞める人が増えてきている。
耕作放棄地が増え、それに伴いイノシシが増えて被害が拡大する。
やっている人のモチベーションが上がらず希望が持てない。
これだけ挙げただけでも八方塞がりで、今まで通りでは未来はないと思う。変わるしか無い時に差し掛かっている。 ではどうしたら良いのか?
様々な方法が模索され、活動されている方もいらっしゃるが、私は自分の頭で自分の地区の米作りをどうしたら良くして行けるか考えてみる。
あくまでも妄想の世界だが、脊振で土地を購入して農業を始めた時、いずれはこの問題にも向き合わなければならないと思っていたし、待ったなしの課題でもあり、ここ近年で方向性を決めなければならない避けては通れないと思っているので、このブログでもアウトプットしてブラッシュアップしてみたい。
中山間での稲作に活路を見出すために、付加価値をつけるにはどんな方法があるだろう?
私は大きく分けて3つの道があると思っている。
➕足す ➖引く ✖️かける
まずは➕ 足す
山は水が冷たく、その分収量は平野に劣るが美味しいと評判がある。一般市場に出荷するより、山のお米としてブランド化して販売すべきだと思う。
乾燥をハザがけで天日干しをすればさらに美味しく、ブランド力が増すと思う。
次は➖ 引く
ブランド力を増すために、農薬を減らす。
化成肥料を減らす。 農機具をシェアリングするなどして、機械代などのランニングコストを減らす。
しかし、無農薬、有機栽培は今のところ労力を➕しなければならないと感じる。
最後に✖️ かける
稲作と掛け合わせることで、相乗効果が期待出来るものとして、合鴨、泥鰌(どじょう)などがあると思う。除草効果もありつつ、鴨肉は魅力的だし、どじょうは高騰するウナギの代替え品としてのニーズが高まっている。飼育出来る場所が限定されるのと、技術、経験が必要ではある。
✖️飲食店 お米が美味しいというのは飲食店にとって魅力的だし、集客が見込める要素になると思う。
飲食店(農家レストラン)を開設し、地産地消を進める。 ちなみに脊振の岩屋という場所にあるうどんやさんのおにぎりは、ご自分で作られた山のお米を出されていて、好評である。
✖️イベント 棚田は魅力があるし、田植えやイベントは農業体験として人気がある。参加者はエシカルな消費者になってくれる可能性が高いし、手間のかかる無農薬有機栽培などの手助けをしてもらえると思う。
ここまで書いてみて、一発逆転のような奇策はないとしても、僅かな光明とでも言うべきものを感じる。 足し算、引き算、掛け算を組み合わせて付加価値をつけるのと同時に、労力やコストをかけずに継続させるには、さまざまな技術や知恵が必要だと思う。
例えば、スマート農業と呼ばれる農業のIT化やロボット化はドローンを使っての農薬散布など、慣行農法の延長と、市場をターゲットにしており、決してオーガニック市場を見てはいないが、水田除草ロボットがルンバの様に水田をスイスイ泳いで、自動的にあぜに設置された太陽パネルや用水路に設置されたマイクロ水力に充電に行く姿を想像するとワクワクする。
私としては、ニワトリを飼っていることもあり、近く食鳥処理場を作る計画があり、農家レストランもする予定なので、合鴨農法にチャレンジする予定である。 野生動物が多いので一筋縄ではいかないだろう。
また、現在餌に飼料米を使用しているが、さらに委託面積を増やす予定だ。飼料米は補助率が高く、使用先の畜産農家が確保出来れば中山間での土地利用に可能性があると思う。
現在は栽培面積は50アールほどだが、最終的には3ヘクタールくらいにはなると思う。
全国の中山間地区で同じく課題を抱えていることだろう。 わたしはわたしの場所でできることをやるのみだ。
大海の大河の一滴だとは思うが、絵に書いた餅では無く、確かな一滴だと思い、取り組んで行きたい。
中山間での米作り②
共同乾燥のオペレーターの仕事も終盤。
今年の脊振地区の収量は例年の3分の1くらいの予想。 台風9.10号による強風での倒伏と、ウンカの被害で、かつてない不作だった。
じわじわとした減退は変化を生みにくいが、今年の様なディープインパクトは従来のやり方を見直す変化のチャンスではと私は思っている。
前回のブログでは私の住む佐賀県の中山間地域でのお米を作りの現状について感じていることを書いてみた。 今のままでは担い手は減少し、それに伴い耕作放棄地が増え、食料自給率は下がるだろう。
あと10年がタイムリミットだというのが地元の方々の共通の認識だ。
ではどんな道が、可能性が残されているのだろうか。国は低迷する食糧自給率を向上させるための数値目標を立て、機械利用組合や集落営農の組織化、担い手の確保の為、人、農地プランを策定し、そこに補助をするなどの政策を行なっているが、あくまで「絵に描いた餅」である。
農水省のHPより。🔽
https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/012.html
「事件は会議室で起こっているんじゃない!」
「現場で起きているんだ!」
何かの刑事ドラマのセリフにあったと思うが、あくまで現場の一農家として感じていること、そして自分の頭で考えてみたい。
中山間地域の農業の将来について考えてみた。
出た結論は大まかに分けて2つ。
①米づくりをやめて、別の土地利用を考える。
1 平野との高低差による栽培時期の差を活かした栽培により、付加価値を付けることが可能。 脊振ではほうれん草、ピーマンなどが行われている。
最も堅実な変化の様に思うが、施設園芸用のハウスを建てるにしても、土地の造成コスト、日照時間の短さ、冬の加温用燃料など平野に比べてもハンデもあるだろう。今の水稲栽培は兼業農家の方が多いが、この形態だと専業化せねばならず、担い手をどう確保するかという課題がある。
ソバやエゴマなどそのまま路地で出来そうなものもあるが、一個人では趣味の範囲で、地域のブランドに育てるには、部会を作ったり、出荷の施設を建てたり、販路を開拓したりかなり息の長い活動が必要の様な気がする。
2 エミューなどの放牧
耕作放棄地を活用した放牧には可能性はあると感じる。 豚、ヤギ、そしてエミューなど、草刈りがわりにもなるし、設備もワイヤーメッシュや電気柵などそれほどコストをかけずにはじめられる。
アニマルウェルフェアの観点からも、のびのびと育った家畜はブランドになりやすいかも知れない。
ただし、草だけで飼えるのはヤギくらいだろうし、(冬には草は生えないので購入する必要がある)餌代もかかるし、豚熱が発生したこともあり、放牧自体の規制が厳しくなる動きがある。
ちなみに佐賀県基山町にはエミューの放牧をしている農場がある。
一度代表の方とお会いしたことがあるのだが、エミュー由来の製品として付加価値があるのはお肉より脂肪で、アスリート向けの塗る鎮静剤としての需要があると聞いた時には驚いた。
3 太陽光発電 もしくは太陽光と農業のハイブリッドソーラーシェアリング
中山間はどうしても日照時間が短いので小規模ハイブリッド型の方が個人的には良いと思う。
ソーラーパネルの下は日陰になるので、原木椎茸栽培などは相性が良さそうなので、いずれ取り組みたいと考えている。ただ自然エネルギーの売電価格は一時期よりも下がっているので費用対効果が見込めるかは不明。 災害時の非常用電源としてオフグリッドでも良いかも知れない。
4 原野化、山林化
最も消極的な変化。 中山間地域に点在する小さな面積の田んぼは水事情が悪かったり、日当たりも良くなかったり、作業効率も悪く、また人里から離れていて猪の被害にあいやすかったりと、山の農家の負担になっていることが少なくない。 この様な田んぼは耕作者が積極的に作っている場合は除き、山林へと地目変更をし次第に原野化、山林化していくのも仕方ないことだと思われる。
日本の人口はこのままいくと2050年には1億人を下回り、お米の消費量もそれに伴い下がるであろうから、中山間地域での稲作も必然的に整理されていくだろう。
長くなったので次回に続く。
次回は、では中山間地域での稲作に未来はないのか? さまざまな組み合わせや付加価値によって継続していく方法について考えてみたい。