中山間での米作り
私の住む、脊振町でも稲刈りのシーズンがやってきた。7年前から共乾(共同乾燥)のオペレーターの仕事をしている。
共乾とは周辺の地区の米農家が収穫したお米を乾燥、籾摺り、袋詰めをし出荷できる様にした施設だ。
農家が各々 乾燥機などの設備を持たないで済む様にするためで、出資は農家 JA そして補助金である。
私のいる共乾は3人1組の班編成で、受付 荷受け
籾摺りとなっている。
フォークリフトの免許を持っていた私は荷受けを担当することになった。 農家さんがコンバインで刈り取った稲がフレコンバックに詰められ運ばれて来る。 それをフォークリフトで下ろして専用のコンテナにあける。 その時農家さんと話をする機会が多い。 脊振のお米は今年はほんとうに不作のようだ。 台風 9号 10号の強風による倒伏と、ウンカの大発生。
「昨年は赤字だったが、今年は大赤字ばい。」
ある農家さんが言っていた。
ただでさえイノシシの獣害を受け、また夏の猛暑の中で、広い畔 斜面の草刈りと、平野に比べれば何倍も大変な中山間のお米づくり。
収穫の喜びがあればまだ報われるところだが、今年は心なしか表情が暗い。
そして、年々感じるのが、農家の高齢化だ。
私を含め、みな同じように歳をとっているのだが、特に70歳を越えた方たちは、腰が曲がったり、目に見えてそれが伝わってくる。
「このままではあと10年したら、成り立たんばい」 とみんな言っている。
これが日本中の中山間地域の現実の姿ではなかろうか。
昔は山でもある程度の面積でお米を作っていたら家族を養い、暮らしていけたと言う話を聞いた。
本当だろうか、今では考えられない話である。
調べてみた。
お米の値段だけでは比較出来ないので、その当時の平均給与と比べてみる。
1965年。今から約55年前
平均年収 45万円 米10キロ 1110円
2020年
平均年収 450万円 米10キロ 2700円
実に、年収は10倍に上がったが、米価は2.5倍だ。
主食のお米はお腹いっぱい食べれる様にはなったが、農家にとっては厳しいと言わざるを得ない。
収入を上げるためには大規模化し、機械化、効率化して量を作らなければならなくなった。
中山間地域でも、機械化や圃場整備などが進んだが、平地に比べても限界がある。
年々、条件が厳しくなる中どうして山の人たちはお米を作り続けているのだろうか?
一つは先祖代々の土地を荒らしたくないと言う気持ちがあると思う。
もう一つは辞めるに辞めれない事情。 先程も書いたが、国からの補助などで乾燥施設を建てたり、中山間独自の補助もあり、また機械の減価償却などの制約があり、自分が辞めたら周辺の人に迷惑をかけてしまうと言ったマインドが働いていると思う。
そう言った中で、自分たちや街に出ている子どもさんやお孫さんへ新米の仕送りをして、喜ぶ顔を励みに頑張っている様な気がする。
しかし、近い将来もう限界が近づいているのを肌身を持って感じる。
では、どうしたら良いのか? どんな可能性が残されているのか、考えてみたい。
続く。