書かずにおれない。

本当に久しぶりに風の谷のナウシカのアニメを見た。 

 

そして今久しぶりにブログを書いている。

書かずにおれないのだ。

 

風の谷のナウシカ」中学生のとき初めて見て以来テレビなどでセリフを全部暗唱できる位見ていたはずなのに、気がつくと本当に長らく見ていなかった、おそらく見たのは十数年ぶりだ。

 

ストーリーも全部わかっているので、それほど心を揺さぶられることもないかなと思っていたが、見ている最中何度も何度も号泣してしまった。

そして自分の原点とは何かということを久しぶりに考えた。

 

高校生の夏休みに「はだしのゲン」のアニメを見て強烈なショックを受けたことがある。

 

見終わってしばらく涙が止まらず自分の心がバラバラに壊れたような感じだった。

 

ささやかな幸せを望み生きている人々が原子爆弾によりズタズタに引き裂かれる様子に17歳の自分の心も引き裂かれてしまった感覚だった。

 

そして文明や科学の進歩が最終的に核兵器に行き着き、お互いに殺し合うならば、まるで自滅の道をたどっている人間とは一体なんだろうと言う疑問を持ってしまった。

 

その疑問へのこだわりは大学に進学してからも続き、周りはみんな合コンとか楽しそうにしていても私はどこか心ここにあらずといった大学生活を送っていたのだった。

じっとしていると頭がおかしくなりそうなので、とにかくエネルギーを発散するため、行動しまくり、暇さえあればバイクであちこちかっ飛ぶみたいな大学生活だった。

 

そんな時にチェルノブイリ原子力発電所の事故が起きた。これもまた衝撃だった。環境問題にとても興味を持ち、本もいっぱい読んだ。勉強会とか抗議活動とかにも参加してみたけれど何かしっくりこなかった。

 

生き方を模索しているときに循環農業を行なっている団体に出会った。

何かに反対したり、机の上で勉強していることだけに疑問を持っていた私は、自然と向き合い自分の手や肉体で食物を生み出す農業と言う職業に興味を持ち、やってみたくなりいてもたってもいられず大学を中退しそこへ飛び込んだ。

 

慣れない農業は大変だったけど、全身全霊を打ち込めるやりがいのある仕事だと思った。

20代後半にはそれでも農業以外の仕事を社会勉強としてやってみたくなり、つなぎからスーツに着替えて営業などの仕事をやってみたりもしたがしっくりくるものではなく、今度は自分で農園を作りたいと思うようになった。

 

2011年東日本大震災の時、福島第一原発事故の時、人間はいつ死ぬか分からないと思い、会社を辞めて新規就農した。

 

思い返せばはだしのゲン原子爆弾の衝撃から始まり、チェルノブイリ原子力発電所事故、そして福島第一原発発電所の事故と、はからずも核と原子力と言うものが自分の人生にすくなからず影響を与えていたようである。

 

しかし最近はといえば、原発の問題も起きてしまった事でもあり、自分が声を上げたところで、どうこうなるものでもなく、無力感とともに、変えられないことは仕方がないので、身近なコントロール出来るところから変えていこう、といった諦めにも似た感じで農業に精を出していた。

しかし同時に心のどこかで、地に足のついた生活をしている自分は直接手を汚していないし、悪くないと言う自己弁明の様な気持ちもあったと思う。

 

そんな中、久しぶりに見た、アニメ「『風の谷のナウシカ』は本当にそれで良いのか!?と言うメッセージを心の最もコアな部分に投げかけてきた。

 

序盤ナウシカが地下室で腐海の植物を育てているシーン。そこにユパがやってきて会話になるシーン。

 

ナウシカ

「きれいな土と水では腐海の植物も毒を出さないと分かったの。汚れているのは土なんです。この谷の土ですら汚れているんです。 なぜ⁉︎ 誰が世界をこんな風にしてしまったんでしょう。」

 

ああ、

 

「誰が世界をこんな風にしてしまったのでしょう?」

 

この瞬間頭に浮かんだのは原発汚染水の海洋放流の事だった。政府は4月13日に福島第一発電所原発汚染水よ2年後から30年かけて海に放出することを決定したと言う報道があった。

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.bbc.com/japanese/56728227.amp%3Fusqp%3Dmq331AQRKAGYAcruo96d5LjLtQGwASA%253D

 

様々な情報が飛び交い、トリチウムは除去できているので流しても問題ないと言う専門家から、トリチウム以外にも様々な放射性物質が含まれているので放流すべきではないと言う意見もさまざまある。

 

僕は原発の専門家ではないので放流しても安全かどうかといった事は判断できないがその中でも強烈に感じた違和感がある。

 

それは自分たち人間にとって安全かどうかといった主点や論点から抜けきれてないと言う所だ。

海には25万種類の生き物が、未知の生物を合わせれば100万種類の生物がいるそうである。

彼らの意見は聞いたのだろうか?

彼らは汚染水の放流を喜んでいるのだろうか?

言葉を持たない彼らは意思表示をしないだろう。

 

人類が誕生して数百万年、日本列島に人間が住みついたのが今から35,000年前だそうである。

人類はまだまだ新参者であり、他の多くの生き物の方がこの地球に先に住む先輩たちである。

 

人間がもし万物の霊長と言って尊い存在ならば、地球に住む兄弟姉妹たち、他の仲間の生き物たちのことも真剣に考えなければならないのではなかろうか。

この海洋放流の影響を正確に予想することは不可能である。海流は複雑だし世界の海はつながっている。生態系は繊細でどのような形で影響が出てくるかは誰にもわからないはずである。

確かに海は広く海水は莫大な量なので汚染水も薄まってしまうだろう。しかし植物連鎖による生物濃縮により、放射性物質は確実に濃縮されそれはやがて食卓に並ぶ魚や海産物となって私たちの体に戻ってくる。そんなことは専門家でなくてもわかりきったことである。

 

その時人間はこれは天罰であるとか自然からの復讐であるとか言うかもしれないが、彼らや自然は天地万物の理に従って動いているのであり、人間のやったことか自業自得で帰ってくると言うことだと思う。

 

いつから人間は

 

「いつから人間の体には真っ赤な血液の代わりに石油と機械油が流れるようになったのだろう?

 

いつから人間は心の代わりに、脳に埋め込まれたICチップが行動を決めるようになったのだろう?

 

いつから人間はこのたった1つの命の代わりに金と発展を大事にするようになったのだろう?

 

いつから人間は生き物を食べる行為が地球とつながることだと言うことを忘れてしまったのだろう?

 

いつから人間は地球とつながっていたへその緒を断ち切り、孤独な存在になってしまったのだろう?」

 

今のままてまは私たち人類は、例えるなら放蕩息子が、自分1人で大きくなったように思い上がり、愛情かけて育ててくれた母親(地球)や兄弟姉妹たち(他の生き物)を踏み台にして遊び呆けてるようなもんじゃないだろうか?

 

海を汚せばどうなるかは水俣病が教えてくれているはずである。

 

あれから何も学ばなかったのか?

 

古くは足尾銅山鉱毒事件もそうだし、水俣病だって発見されてから原因が究明されるまで10年以上の歳月がかかった。

原子力発電だって絶対安全だったはずである。

 

ではなぜ絶対安全な原子力発電所東京湾に作られなかったのか?

 

万が一のことを考えていたのである。

 

そしてその万が一のことが起こった。

想定外のことが起こったのである。

そして想定外の事はこれからも起こり得るのである。

 

ナウシカの後半のシーン

 

トルメキアのクシャナと風の谷のおじいさんたちの会話。

「あんたは火を使う。 そりゃあわしらもちいとは使うがの。」

「多すぎる火は何も産みはせん。 火は一瞬で森を灰にする。水と風は100年かけて森を育むんじゃ。」

「わしらは森と風のほうがいい」

 

本当に考えさせられるシーンだった。

多すぎる火=原子力はその圧倒的なエネルギーが故にコントロール不能になった時は壊滅的な被害をもたらす。

そして、放射能はずっと生態系に影響を与える。

 

数十年前、原子力発電が実用化されたときにはまさにその時代の人々にとっては夢の技術、エネルギーだったに違いない。

 

事故が起こったときのこと、やがて来る廃炉の問題を考えている人はわずかだったろう。

 

しかしその人たちを責めることはできないと思う。

彼らもこんな事故を起こし子孫に負の遺産を残そうとして努力したわけでもないだろうし、子や孫に豊かな生活をさせたいと言うのがスタートだったと思う。

原子力の問題は電力会社にだけ背負わせるには大きすぎるし、原発を推進した政権だけを責めても仕方がないし、解決できないだろう。もちろん大きな責任があるのは間違いないが。

 

エネルギー問題は一人ひとりのライフスタイルにまでつながってくるし、放射能の問題はどんな山奥で自給自足の生活をしていても影響を受ける問題だ。

 

将来起こりうる事への責任が取れないと分かっているならば、汚染水の海洋放流は絶対にすべきではないと思う。

.海はつながっているからこれは世界に影響することである。

 

このような負の遺産(借金)を返すには相当な覚悟がいると思うが、どんなに時間がかかってもそこに取り組むべきであり、それは今生きている大人が受け止めなければならないし、未来に期待を託すなどは情け無いと思うべきだと思う。

 

またエネルギー問題も再生可能エネルギーやオフグリッドのシステムなど大規模集約から小規模分散へ徐々に移行すべきであろうし、そのような技術のコンバージェンスに力を注ぐべきだと思う。

 

そうすればこの苦い経験が、世界を救う宝物になるかもしれない。

 

未来の人々に

「誰が世界をこんな風にしてしまったのでしょう?」と言わせないためにも。

 

風の谷のナウシカを久しぶりに見て感じたことを書かずにはおれず書いてみました。長文を読んでくださりありがとうございました。あまりに大きすぎる問題は自分とはかけ離れたもののように感じ、言葉を発することも躊躇してしまいがちですが、共感してくれる人がいると嬉しいです。