ペンタ共和国に想いを馳せつつ、山の会議(仮)脊振山系グループに参加して ②

前回は平成の大合併により、中山間地の村などの多くは市、町などの大きな行政区との統合の道を選択し、その結果リーダーであった村長などがいなくなり、地域独自の決断や、実情に合った政策が出来にくくなり、行政主導での地域づくりの活力が弱くなったと感じるということを書いた。

 

自主自立の道を貫いた、岡山県西粟倉村の様な稀有な例は別として、日本中の過疎地は大なり小なり同じ様な道を辿っているのかなと思う。

 

今回は、その様なリーダー不在の過疎地で、行政主導ではなく地域を活性化するにはどうしたら良いのか? を自分なりに考えてみた。

 

.....とはいえ、第一部を書いてからかなり時間が経つが、これは!といった良い方法が浮かばない。

さてさて、困った。 

 

参加した山の会議である方が言っていた言葉。

「山の衰退や過疎化には特効薬がない。」

たしかにそうだと思う。 行政主導による強力なリーダーシップは特効薬と言えなくもない気がするが、他力本願な感じもする。 

 

そもそも、合併を選択した段階で、自力では地域の維持が困難だという判断を住民の過半数がしたということなのだろう。  精神論と言われるかもしれないが、私は合併したこと、そしてリーダーが不在になったことよりも、自主自立の気概と、地域に対する誇りが、薄まり弱まった事こそが問題だと思っている。

 

こんなことがあった。 脊振には「脊振の給食日本一」と皆が自慢の自校式給食がかつてあった。

 

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山の子が平野の子に比べ小柄だったことから、村興しは学校給食からと服巻四郎さんという当時の教育長が村中をまわり村民を説得して出来上がった。

3代目村長、徳川権七さんら村人総出で植林した木を伐採して財源とし、給食の搬入路も村人たちが区役で作ったそうである。

おもやい給食と言って、地域の方々が家庭菜園で取れた野菜を持ってきたり、生産者も年に数回給食に招待されたりして、地産地消や理想的な食育の姿がそこにあった。

 

しかし、合併により、給食センターを作ることとなり、統合の道を余儀なくされた。代々の育友会の方を中心として、約10年に渡り存続のための地道な努力をし、最終的には脊振地区の方々の7割以上、約1000名の方の署名を持って市役所に届けたが、市長をはじめ、当時の教育長も受取を拒否。 理由は決まったことだからという一点張りだった。

 

そして、皆から愛された脊振の自校式給食は歴史の幕を閉じた訳だが、私はこのことで無くなったのは調理場ではなく、地域の繋がりであり、地域への誇りだったと感じている。

 

ここからは右脳で書くことにする。

 

先人たちが次代の幸を願い、心血注いで作ったものを、ただただ効率と、コストの削減を目的として無くして良いのか!

集まった1000名の署名は、行政に反対するためのものにあらず、地域の宝を護りたいというたったひとつの願いによるものだった。 それを受け取らない行政に市民の声を聞きますなどと言う資格が果たしてあるのか!

市として合併したことで、同じ行政区内でサービスの格差が生まれるのは問題だというのは分かるが、平等というのは良いものもなくして平均的にすることでは無いのではないだろうか!

それは平等では無く悪平等であろう。 地域によって実情も違うし、歴史や伝統、もちろん大切にしているものも違うはず。

個性を薄くして均一化するのはまるで同化政策ではないか!

 

駆けずり回って集めた署名を受け取ってもらえず、仲間と一緒に泣いた夜。

地域を思う人々の心に氷水をぶっかけるかのごとき対応に、5年たった今でも納得いかないのだ。

 

乱筆乱文失礼いたしました。

 

済んだことをまだ根に持っているの? と言われる。

ある方からは、「気持ちは分かるが、引き際も肝心だよ。」といかにも大人の対応をされたが、はっきり言って、納得できるかボケ! である。

 

ここで右脳は終了。

 

私は人から馬鹿と言われようが、意地悪されようが、決して根に持つタイプではないが、人が大切にしているものを数の力や権力で踏み躙ることには無性に腹が立つ!  どうもそういう性分らしい。

 

子どものころは弱いくせにいじめっ子に楯突いていじめられたり、理不尽な先生に歯向かって目をつけられたりしたものだ。自分でも困った性分だとつくづく思うが、仕方がない。

 

しかしこのことをきっかけに学んだことがある。

世の中には、大きな力や数の力に、踏みとどまって声をあげ続けている人が大勢いるということ。

今まで人ごとだった自分に気づき、恥ずかしくなる。

 

そして大切なものを守るためには覚悟がいるということ。

とても大きな学びだったと思う。 この経験がなければ、自分の仕事を通して地域の活性化に繋げたいとは心底思わなかったかも知れない。

 

脊振に移住して17年。あと2年で最も長く住んだ場所になる。

 

私は故郷を捨てた人間だ。 

移り住んで、土地を購入し、農業を始めたとき、ここで生きようと決めた。そしてここが故郷になった。

だから故郷がじわじわ衰退していくのを黙って見ていられないし、なんとかしたい。

 

読んでくださった方を不愉快にさせてしまうことがあるかも知れません。 

 

しかし、一見するとネガティブな体験が、その後の行動を決定づけることの方が多いと感じます。

スティーブ・ジョブズが自ら作ったAppleを追い出された体験を後に最高の出来事だったと言うように。

点と点はつながり、やがて線になる。

そう思っています。

 

またまた長くなってしまったので、次回につづきます。